舞踏譜について
Explanation About Butoh-fu
はじめに
CD-ROM版『舞踏花伝』(1998年)より
定義
ここに収められている「舞踏譜」とは、1972年から78年までの間、土方巽が彼の率いる稽古場であったアスベスト館の弟子たちを振り付ける時に「言葉を通して」教えたその言葉を、和栗由紀夫が書き留めておいたものをまとめたものです。
土方舞踏固有の舞踏譜
日本にも海外にも舞踏家はたくさんいますが、バレエ全体を通して「パ」と呼ばれる基本的な動きがあるように、舞踏界全体に共通の「舞踏譜」があるわけではありません。 それぞれのダンサー、振付家が独自のやり方で作舞をしています。 言葉を使わない人もいれば、即興で踊る人もいます。 ここでとりあげる「舞踏譜」は、土方巽の作舞に限っていることをおことわりしておきます。
口伝の振付を記録
その土方巽の「舞踏譜」もアスベスト館のダンサーすべてに同じひとつの教本があったわけではありません。 個々のダンサーが師から口伝で受けた振付を各自で「抜き書き」して書き留めているので、芦川羊子、玉野黄市、小林嵯峨、山本萌らそれぞれがここでまとめている舞踏譜とは違うものをもっている可能性があります。 ここに収めた「舞踏譜」は、和栗由紀夫が土方巽から受けた言葉を記録したものです。
和栗解釈による舞踏譜
土方巽は踊りを「舞踏譜」として系統立てて整理して教えることは一切しませんでした。 ここで「舞踏譜俯瞰図」として7つの世界に分類整理してあるのは、「舞踏譜」に長く関わってきた時間の中からうまれた、あくまでも和栗由紀夫の解釈によるものです。 違った読み方、解釈もまた可能です。
第2次暗黒舞踏派
「舞踏譜」的方法の成立の要因のひとつに、土方巽が特に70年代以降にはじめた第二次暗黒舞踏派の性格の特異性があります。 第二次暗黒舞踏派には、それまでの舞踊界では考えられないような、身体的な基礎訓練を受けていない素人ダンサーも含まれていました。 彼等を演出して土方の世界を創っていくにあたって「言葉から連想させてものをつかませる」という方法は有効な早道だったに違いありません。 70年代以前の、モダンダンサーとしてできあがっている人達が身についていた既存の枠組みを超えようとして踊っていた舞踏の創世記には、その必要がなかったかもしれません。
成長する舞踏譜
この土方口伝の「舞踏譜」をまとめた和栗由紀夫は、作品づくりをするときに土方の「舞踏譜」だけを用いているわけではありません。 和栗自身の「舞踏譜」が作品毎に増えていますし、彼の弟子たちもそれぞれのソロを創作するにあたって、独自の「舞踏譜」を創っています。 「舞踏譜」とは絶対的なものではなく、そこからまた新しい「舞踏譜」を生みだす泉のようなものなのです。 ただし、ここでは土方の「舞踏譜」を収めるにとどめました。
「花伝」という言葉
「舞踏花伝」というタイトルは、世阿弥が彼の師であり能の創始者である観阿弥から一子相伝的に伝えられたことを彼なりに咀嚼して記した「風姿花伝」からとっています。 そこには能の「花」を伝えるという意思がはたらいています。 「舞踏譜」を書き留め、「舞踏花伝」として皆さんに公開するのも、現代の日本に独自な舞踊表現として「舞踏」を生みだした土方巽の「花」である豊かなものの見方や方法論を伝えたかったからなのです。