舞踏家・和栗由紀夫の存在を記憶にとどめるために(谷川渥)


 和栗由紀夫が急逝してからあっという間に長い時間が経とうとしています。2017年10月19日、京都精華大学での公演が最後の舞台となりました。「舞踏の現在」と題して、和栗の公演の後、私が和栗の師・土方巽の「舞踏譜」との関係について話を聞くという催しでした。すでに体調を悪くしていた和栗の「病める舞姫」は、あえて土方の著書のタイトルを冠して、息を飲むような緊張感と悲壮感をたたえた、まさに白鳥の歌ともいうべき舞台でした。そのあとの私との対談では、和栗はほとんど声が出ない状態でした。そして帰京後の22日に和栗は帰らぬ人となりました。

 私は土方巽歿後のアスベスト館で初めて和栗と出会いました。以後、彼と私は旧知の友人同士のような交友を続けました。私の舞踏経験はほとんど和栗の舞台を中心にしてなされたと言っても過言ではありません。作成された「年譜」を見ると、和栗がいかに私の仕事に配慮して幾つもの作品を創り上げてくれていたかにあらためて気づかされます。1995年1月に愛知芸術文化センターで行なわれた「美術表現におけるからだ」が最初のコラボレーションになりました。これは萩原朔美をコーディネーターとして企画されたもので、私がまず同タイトルで講演をし、そのあとで踊る和栗の肉体を素材に吉江庄蔵の皮膜彫刻の実演を見せるという贅沢な催しでした。1998年3月には両国のシアターXで私の著書『幻想の地誌学』を「原作」として和栗と好善社による「幻想の地誌学〜身体への距離」が舞台化されました。「原作」とはじつは名ばかりで、和栗が拙著から好きな場面を抜き出し、それらを再構成して見事な舞台を現出させたものです。2002年12月には今度は六本木オリベホールで変奏曲ともいうべき「幻想の地誌学II」の公演が行なわれました。さらに和栗は2010年12月に日暮里サニーホールで、また私の著書『肉体の迷宮』を「原作」として舞踊家の関典子とともに同タイトルの舞台化を実現しました。

 これらは直接に関係した公演ですが、間接的に関わったものについて語っていたら切りがありません。いや、あえてひとつだけ思い出を語らせていただくなら、2007年3月のイタリア・ボローニャ大学での公演があります。当時ローマに滞在していた私は、和栗と森下隆が来るというのでボローニャまで行き、そこで数日間行動をともにしました。大学では留学生たちを含む多くの学生たちへのワークショップが開かれましたが、私は和栗の堂々たる指導者ぶりに大いに感銘を受けたものです。

 亡くなってあらためて彼の存在の大きさを痛感しています。土方巽の創始した舞踏はいまや世界的に普及し、多くの舞踏家たちがそれぞれ独自の活動をしていますが、そのなかで土方直系の弟子・和栗の貫いた舞踏のスタイルとその指導者性がますます貴重なものに感じられるようになりました。「好善社」を結成して内外で数多くの公演を行ない、ワークショップを開き、また土方の方法論を多角的に集大成した『舞踏花伝』を作成して、舞踏の普及に大きな貢献をした彼の功績が忘れられてはならないと思います。このWEBが舞踏家・和栗由紀夫の存在を記憶にとどめるためのひとつのよすがになることを願ってやみません。

谷川渥