和栗由紀夫と「舞踏譜」、和栗由紀夫の「舞踏譜」(森下隆)
Yukio Waguri and ‘Butoh Notation’, Yukio Waguri’s ‘Butoh Notation’ by Takashi Morishita
土方巽と舞踏譜
和栗由紀夫の45年に及ぶ舞踏活動は、1972年に土方巽に師事したことに始まります。そして、土方巽から与えられた舞踏を全うして、その活動を終えたのです。舞踏活動のみならず、その人生においても、土方巽の存在を抜きにしては考えられないでしょう。
1970年代の土方巽の舞踏表現の核心は舞踏譜です。土方巽の死後、和栗由紀夫が追究し、広宣してきたことは、土方巽の舞踏ですが、つまるところ「舞踏譜の舞踏」であるといっていいでしょう。
舞踏譜とは何かを簡潔に言えば、踊りにおける身体の「動き」を生みだし、かつ規定するものです。その意味で、和栗由紀夫は土方巽から多くの舞踏譜(「動き」)を与えられています。舞踏譜は全て言葉で表されています。つまり。記号化されているのです。和栗由紀夫が土方巽から授けられた記号(「動き」)は図−1で示すように、1000を優に超えます。これらの言葉(「動き」)は和栗由紀夫の身体に鋳込まれるように保持され、いつでも取り出すことができる、つまり演じることができるようになっています。
こういうと、土方巽の舞踏譜は型にはまった「動き」を生成し、ひいてはダンサーの主体性や個性を剥奪するもので、近代のダンスの理念に反するのではないかとも思われます。
もちろん、土方巽は型にはまった「動き」を追求したわけではありません。また、単純に個性を捨てるようにしたわけでもありません。創造された「動き」は数千を超える膨大な数であり、型であろうはずはありません。また、痙攣を本質とする舞踏にあって、土方巽が求めた微細な動きは、見分けることも分節化することもできないほどで、とうてい型では生み出すことはできません。
「舞踏譜の舞踏」はその構造にあってもメソッドにあっても、きわめてメカニカルに構築され運営されます。しかも、身体の動きのみならず、人間の複雑な心理を、あるいは奥深い感情を、あるいは繊細な神経を、あるいは制御しがたい生理を巧緻に手繰り、操作することで、土方巽の「舞踏譜の舞踏」は成立するのです。
また、土方巽のダンス理念は、もともと反近代的で反主体的であったといえます。アンリ・ミショーの創造の手法のように、表現者の主体性を認めない傾向があるのです。シュルレアリスムの思想や手法との親和性と考えてもいいでしょう。また、歌舞伎研究の郡司正勝が土方巽の舞踏を称揚したことに、土方巽は勇気づけられたことでしょう。踊りから自我を棄捨することを目指した土方巽の舞踏が、近代以前の古典芸能とも親和性があるとみなしてもいいでしょう。
和栗由紀夫「私家版 舞踏譜」
和栗由紀夫はもちろん土方巽ではありえません。土方巽から与えられた、あるいは学んだ「舞踏譜の舞踏」を和栗なりに解釈し、捉え直し、編集していることは確かです。また、土方巽の存在や舞踏の思想から、東北・秋田の風土や身体、土俗や暮らしを外すことはできませんが、当然のことながら、東京で生まれ育った和栗由紀夫には東北の風土も身体もありません。それだけに、和栗由紀夫は土方巽のメカニックであると同時にマジカルといっていい方法を継承しつつ、「舞踏譜の舞踏」の根底にある純粋思考に基づく技法をことさらに継承しようとしました。合わせて、実践においては、土方巽の影響を受けつつ、土方巽の世界を離れて、和栗ならではの江戸の古典芸能の演技を織り込もうとしたのです。
和栗由紀夫は土方死後、土方巽の遺言でもあるかのように、土方巽の舞踏譜に向かい合います。アスベスト館での修業時代に、土方巽の膨大な言葉を書き留めたノート。筐底に秘されていたそのノートを取り出し、稽古の記憶とともに整理し始めます。
土方巽の言葉が書き移され、項目(テーマ)をもってまとめられたのです。「ルドンの花」「ゴヤの闇」「ベーコン」に始まり、「肉の祝祭」「アウシュビッツ」「ターナー空間」、さらに「神経の共和国」「ヴォルス」「幽霊」「気化」といった表題をもつ60の項目で、舞踏譜の「動き」が綴られていきました。それはまた、和栗にとっては、土方舞踏の世界の俯瞰図でした。
さらに、土方巽がレファレンスしていた絵画作品の図版を「みづゑ」や「三彩」、「美術手帖」といった美術雑誌をはじめ、図録や画集に求め、ワープロで打たれた言葉とコピーされたイメージを並べて「私家版 舞踏譜」を編集・製本したのです。1991年のことです。和栗自らが「手作り本」と言っていますが、その「舞踏への誘い」と名付けられた簡易装の本の扉に「師 土方巽のメソッドの断片をここに記す」と書いたのです。
和栗は土方巽からその名を与えられた好善社(らい病の療養所「慰廃園」を運営していた団体名に由来。アスベスト館はその跡地に建設)をもって、公演活動を行い、若いダンサーたちを舞台に上げるべく指導します。かつて、土方巽が自分たちに行ったことを今度は自分が行うことになって、この「私家版 舞踏譜」は大いに活用されることとなります。弟子たちに「舞踏譜」を見せ、読ませ、さらに解説を加えて、実際の「動き」を教えるのです。「私家版 舞踏譜」は土方舞踏の教則本ともマニュアルともなりました。
土方メソッド
もっとも、「私家版 舞踏譜」は、舞踏の初心者にとってマニュアル(手引書)として有効かといえば、誰しも否定するでしょう。土方巽の舞踏をマニュアルでマスターすることはできないのはあきらかです。しかし、土方巽の舞踏創造の方法や「舞踏譜の舞踏」の構造を知るてがかりにはなるでしょう。土方巽の舞踏の基底にあるのは、あるいは舞踏を成り立たせているのは言葉であり、舞踏の「動き」は言葉が触発することで発現されることが分かります。レファレンスされている絵画作品は、土方巽の舞踏の本質を示唆してくれます。単純に言って、「私家版 舞踏譜」の掲載されている言葉と絵画が、土方巽の舞踏の世界観を開示しているといってもいいでしょう。
「私家版 舞踏譜」を作成した和栗は、同時に「土方メソッド研究会」を発足させます。アスベスト館を会場にした舞踏のワークショップです。会場が土方巽ゆかりのアスベスト館ということもあってか、和栗は、この研究会では土方巽のメソッドを伝授するのではなく、土方巽の問いかけを力に、土方巽が残した未知なる豊かな謎に取り組むと宣言しています。
言うまでもなく、概念で舞踏は成立しません。舞踏家の身体が所与の空間にあって、いかにどのように発動するのかを追求しなければなりません。それが舞踏の「技術」といえるでしょう。土方巽の言う「曖昧なものを包囲する技術」です。また、土方巽は舞踏を踊るには、森羅万象を知らなければならないと言いました。それは知識というのではなく、心理や感覚、生理や神経といった身体のさまざまな機構を挙げて、「動き」はクリエイションされねばならないということでしょう。
舞踏作品
和栗にとって、土方巽の舞踏を熟知しているという自覚とともに、「舞踏譜の舞踏」をもって作品をつくることに精力を傾けます。1990年代には、好善社の制作で、『楼閣の翼』のシリーズに始まり、『青い柱』『日月譚』『野の婚礼』『沈める瀧』『螺旋の夢』『エローラ・石の夢』など、1年に1作のペースで作品を発表しています。
タイトルから分かるように、イメージが奔出する作品群です。文学性や物語性をはらみ、巧みな構成と緻密な演出が和栗の舞踏の特長ですが、そのベースになるのは舞踏譜です。舞踏譜によって膨大な数の「動き」を体の中に入れている余裕が、多彩な作品を生み出したのでしょう。また、音楽や美術、さらに照明と、和栗の作品を彩るスタッフに恵まれ、新しい作品をつくり上演するおもしろさを満喫していたことでしょう。
また、公演を重ねるうちに、和栗のもとに舞踏を志望する若者たちが集まってきます。作品制作と同様に、若い舞踏家たちに丁寧、懇切に指導する中で、土方巽と和栗の関わりと同様に、師匠と弟子との関係で舞踏家の育成に努めます。
こうして、土方巽の舞踏譜の世界を再構成して和栗の作品を発表するなかで、舞踏譜の再検証の必要にかられます。弟子として土方巽の振付法、作舞法、メソッドを伝えながら、同時に新しい舞踏を提示しなければと考えたのです。土方巽が言ってきたように、「舞踏はまだ始まったばかりです」から、いくつものの視点から舞踏を見直すことは意義あることです。
舞踏譜と舞踏の技術
土方巽の生前に、土方巽の著作でまとまって刊行されていたのは、『病める舞姫』だけです。土方巽の1周忌に合わせて、土方巽の論文・エッセイ集として『美貌の青空』が刊行され、土方巽の舞踏初期からの舞踏をめぐる思想や評論をまとめて読むことができるようになりました。
しかし、土方巽の舞踏の創作法については、断片的な言及でしかなく、記録映像を見て、渇きを癒すほかなかったのです。すでに、海外では大野一雄や山海塾を始めとして、次々と舞踏家が海外展開を行い、舞踏のグローバル化が注目されていました。とりわけ、大野一雄の人気は国内でも高まり、その即興性の顕著な踊りは「魂の舞踏」として高く評価されていました。
舞踏とは縁があるとは思えなかった批評家の吉本隆明は、早くに「舞踏論」(土方巽論)を書いていて(1989年)、土方巽論はあっても舞踏の技術についてふれている舞踏論は少ないと指摘しています。「誰もがいちばん先に知りたいのはそこだ」とまで述べています。吉本は土方巽を言葉の人と見抜いて、言葉と舞踏のつながりを明解にしていました。土方巽の舞踏が型から入るのではなく、「身体を文字のようにつかって暗喩を書く」と述べ、その暗喩を生み出す技術を問いかけているのです。土方巽の「舞踏譜」の言葉を知らない吉本は、土方巽の舞踏の核心にふれえないもどかしさを感じていたのでしょう。
三上賀代が「土方巽暗黒舞踏技法」を研究対象としてまとめたのは、1993年ですが、土方巽の舞踏についての学術的研究にあたって、初めて「稽古ノート」が使われたのです。三上自身も稽古ノートを用いて研究することで、土方論の新しい視点になり得ると述べています。
大野一雄の復帰初期の作品もまた、土方巽の振付によるもので、舞踏譜による作品であったことは異としません。その意味では、大野一雄の当時の舞踏は即興舞踏とはいえません。その検証のためにも、大野一雄の復帰初期作品における土方巽の舞踏ノートが求められるところです。
土方巽の舞踏譜を参照しても、土方巽の舞踏の技術が明解になるわけではありません。土方巽は体系的な舞踏論をまとめることもなかったので、不分明きわまりないのです。また、舞踏譜を丹念に探れば、作舞法はうかがうことができますが、いわゆる技術論を読むことはできません。
和栗は、「技術は一切の魂のうちにある」という土方巽のエソテリックな言葉を残していますが、舞踏にとっての技術とは何かは、重要な問いかけです。即興を演じながらも即興を否定した土方巽は、踊る技術を無視してはいません。技術なくしては、土方巽の舞踏を踊ることはできません。しかし、同時に絶えず創造することを自らに強いたのです。踊りが型にはまらず、マンネリズムに陥らないために、ひたすら創造にかけたのです。
CD-ROMというメディア
1998年は土方巽の舞踏を考えるうえでメルクマールとなる年です。この年初めに『土方巽全集』が刊行され、土方巽の「舞踏譜」が収載されたのです。これまで印刷物に掲載されることのなかった「舞踏譜」です。全集第2巻の100ページばかりを費やして、アスベスト館に保存されていた「スクラップブック」と「シート(手稿)」の一部が写真版で掲載され、さらに一部は書き起こして掲載されました。これが、本格的な「舞踏譜」の解禁となりました。
和栗もまた、「私家版 舞踏譜」を元にして『舞踏花伝』へと展開しようとしていました。もともと「舞踏への誘い」と名付けた「私家版 舞踏譜」を書籍として出版しようと考えていました。しかし、言葉とイメージ、そして身体の動きを紙の上に表現するには難しいということで頓挫したのです。
ところが、和栗とジャストシステムの浮川和宣社長との出会いが、この計画を進展させることになります。マルチメディアの制作に携わっていたスタッフとの恊働によって、『舞踏花伝』をCD—ROMという新しいメディアによって制作・出版するという、思いがけないプロジェクトへと発展したのです。
和栗が構想していたのは、世阿弥の「風姿花伝」がたんに能の技術書ではなく、芸能の精神世界をも表明しているように、「舞踏への誘い」でも土方巽の舞踏の世界観を示すことでした。
文字や写真(静止画像)だけではなく、動画や音楽、音声と多岐にわたる素材をもって舞踏譜の世界を表現できるデジタル・メディアは、パフォーマンス芸術にはおあつらえ向きです。和栗の『舞踏花伝』にとっても、これまでの平面的な紙メディアではなく、重層的な表現、立体的な構成が可能であるCD-ROMは絶好のメディアであったのです。
さらにCD-ROMは、限られた時間で一方的に鑑賞するビデオ映像とは違い、視聴者がたえず選択を行うことによって、多層な世界に移動して非時間で活用するメディアです。ワークショップで受講者と対話しながら指導していた和栗としては、大きな可能性をもつメディアと考えたことでしょう。
CD-ROMは現在では、ほとんど使用されないメディアになりましたが、その当時にあっては先端的なメディアで、むしろまだ評価が定まらないメディアであったでしょう。
当初の企画書では、1996年の発行となっていましたが、実現するには紆余曲折がありました。多様な素材資料の収集と編集にも時間は要したでしょうが、舞踏の世界、とりわけ和栗独特の表現世界をデザインするのに試行錯誤したことは否めません。結果的には、『舞踏花伝』が完成し刊行されたのは1998年です。この年は、土方巽の13回忌のメモリアル・イヤーということで、土方巽に寄せてさまざまなイベントが行われています。慶應義塾大学アート・センターに土方巽アーカイヴが創設されたのも、この年4月のことでした。
『舞踏花伝』の世界
その和栗由紀夫が土方巽の舞踏譜の世界を解読するプロセスは、1996年に発表した舞踏作品「舞踏花伝」にすでに見いだすことができます。この作品の副題は「七つの世界を巡る旅」です。また、和栗自身が「舞踏譜を羅針盤に、舞踏譜が開いていく7つの世界を航海する作品」と述べているように、7つの世界が明示されます。「解剖図鑑の世界」「花の世界」「島とけだものの世界」「壁の世界」「神経病棟」「焼け落ちた橋の世界」「深淵の世界」の7つです。もとより、土方巽が分類した世界ではなく、和栗が土方巽の膨大な言葉を読み解いた作業の結果です。
和栗の解読作業は進捗して、さらに多彩な素材や情報が集積され、CD-ROM『舞踏花伝』に収録されます。『舞踏花伝』の内容を簡単にみておきましょう。
『舞踏花伝』には、2枚のディスク(ディスクA・ディスクB)が収められています。ディスクAには、88篇の「舞踏譜」と舞踏作品「舞踏花伝」が収録されています。
「舞踏花伝」は通しで観賞することができますが、作品を構成している7つのシーンを個々に選んで観賞することもできます。この7つのシーンは、先の7つの世界に対応していて「島」「庭」「旅」「廃墟」「王子」「入れ子」「光の帯」と名付けられています。それぞれのシーンは踊りとCGの合成である「仮想舞台」として映像で見ることができます。
一方、7つの世界(タイトル)は「舞踏譜俯瞰図」にレイアウトされています。「舞踏譜俯瞰図」からそれぞれの世界に入ると、作品とは別に分類されて収められた「舞踏譜」(タイトル)を参照することができるのです。「見たこともない国」「架空庭園」「迷宮」「怪物」「ドペルゲンゲル」「ボッスの祭壇画」「めまい」といった88篇の「舞踏譜」が、それぞれの世界に紐づけられています。さらに、このそれぞれの「舞踏譜」を選ぶことで、具体的な「動き」を示唆する言葉が書かれた画面を見ることになります。
この「舞踏譜」の画面からは、当該の舞踏譜の解説画面、絵画や写真資料を参照する画面、さらには舞踏譜による実際の踊りの映像の画面などに移動することができます。
また「舞踏譜俯瞰図」の画面から、「舞踏譜解析」と「舞踏譜解説」の画面に入ることができます。「舞踏譜解析」では、俯瞰図の配列の根拠を示す和栗の見方(分類)がナレーションとCGで示されています。
なお、作品「舞踏花伝」と「舞踏譜俯瞰図」とはリンクされていて、ボタンで行き来できるのです。いずれにしても、重なるレイヤーと隣接した画面を自在に動くことで、土方巽の舞踏の世界と「動き」を記号化した「舞踏譜」を理解する、というよりも体験することになるのです。
ディスクBには、「舞踏」「土方巽」「和栗由紀夫と好善社」についての、映像や写真、印刷物などのさまざまな資料が収録されています。
発行にあたっては、「原案・監修:和栗由紀夫」、および「制作:和栗由紀夫+好善社」となっています。アート・ディレクションとして田中一光が協力し、ジャストシステムが発行・発売元となることで実現しました。宣伝のチラシには、「ことばによって触発されるイメージの源泉。身体化する記号『舞踏譜』の豊かな世界への扉が今、ひらかれます。」とのキャッチフレーズが掲げられています。
また、CD-ROM『舞踏花伝』の刊行記念に、「身体化する記号−舞踏譜」と題したイベントが、この年1月に紀伊國屋サザン・セミナーとして開催されました。舞踏パフォーマンス「千の眼」が上演され、「言葉とからだ」と題して対談が行われ、多くの観客に迎えられマスコミも注目したのです。
折しも、ウィリアム・フォーサイスも、自らのダンスの紹介と解析をCD-ROMに編集、刊行して話題になっていました。デジタル・メディアの活用による、パフォーマンス・アートへの新たなアクセスによる研究や観賞は、デジタル・アーカイヴの発想とともに、社会的にも注目されることになりました。
いずれにしても、和栗由紀夫が精魂こめてつくった『舞踏花伝』は、舞踏をCD-ROMという新しいメディアで紹介する画期的なプロジェクトになりました。
「舞踏譜考察」
これ以降、和栗は海外に出かけることが多くなります。ヨーロッパから北米、ブラジル、韓国やインドネシア、マレーシアなどアジア各地。「野の婚礼」や「魂の旅」をもっての公演を行うとともに、舞踏ワークショップを求められ、現地のダンサーたち、もちろん舞踏家とは限りませんが、指導に当たることとなります。そういったワークショップに際しても、日本語と英語のバイリンガルのCD-ROM『舞踏花伝』は大いに活用され、またダンサーたちも買い求めて学習にあたるようになったのです。
さらに、2010年代になると、舞踏カンパニーとしての好善社を解散していて、和栗は一人で海外に出かけるようになります。ますますアジア地域での活動が頻繁になりました。東北大震災の直前には北京で活動していますが、その後は、台湾、マカオ、香港、さらに中国では西安や雲南などにも招かれるようになります。
この間、ワークショップは一層さかんに実施されるようになります。このことは、舞踏がグローバル化するとともに、世界中で求められていることで、和栗に限ったことではないのですが、和栗はその要請によく応えて活動していました。その活動を支えたのは、やはり「舞踏譜」であったに違いありません。
かつてアスベスト館で土方巽と和栗由紀夫が向かい合うとき、「舞踏譜」は舞踏家(師)から舞踏家(弟子)への伝授であったのですが、海外において舞踏のワークショップを行うときには、教える・教えられる関係が変質してきたのです。「舞踏譜」が舞踏の枠を超えて、外延化するあるいは普遍化する、といってもいいかもしれませんが、時代や地域や文化を超えて生き続ける可能性を有するテキストになりつつあるのです。
この活動の過程で、今となっては晩年のというべきですが、和栗由紀夫は、新たに「舞踏譜考察」と題した文章を書き残しています。師である土方巽の舞踏に、そして土方巽の「舞踏譜」にあらためて向かい合い、再検証する気迫のこもった文章です。
和栗自身は、「私家版 舞踏譜」やDVD-R『舞踏花伝』の序文となるべく、覚書として書いたと述べています。舞踏とは何かを問いかけ、「舞踏譜」をめぐる大きな問題をも意識して、さらには背後から語りかけてくる、師土方巽の声にも耳を傾けて書かれたのです。
かつて、土方巽が「暗黒舞踏」と名付けていたのに、「暗黒」が消えて「BUTOH」になってしまっている今、「暗黒」を考え直す時期にあると述べています。「舞踏はあくまでも自己探求の旅なのである」という覚悟を再確認するかのように、舞踏に向かっています。
その覚悟とともに、『舞踏花伝』で描いた7つの世界の再検討を行ったのです。土方巽の舞踏の世界をつぶさに検証しつつ、つまるところ語られるのは「肉体」なのです。「肉体」をとりまく「死」や「時間」や「狂気」や「神経」や「幽霊」を語りながら、ひたすら舞踏を肉体に取り戻す闘いをしているように思われます。
「舞踏譜」をめぐって問い、語り、惑い、執拗に言葉を尽くしています。今となっては、40年を超えて舞踏家であり続けた自分自身へのレクエイムというべき痛切な文章というほかありません。
森下隆(初出:2018年5月『魂の旅』パンフレット)